宗教法人辯天宗

宗祖さまのあゆみ

大辯才天女尊の 神代として

 宗祖さまは明治42年4月1日、奈良県吉野郡吉野村飯貝(現奈良県吉野郡吉野町飯貝)に住む吉井家の長女としてお生まれになり、清子と名付けられました。
 幼いころから苦難の多い日々でしたが、それはすべて人としての行であり、神代となる宗祖さまの人となりをつくりあげました。
 昭和4年、高野山真言宗の僧であった大森智祥さまと結婚。その後2児の母になった清子さまに異変が起こります。寺の庭で草むしりをしているときに突然倒れ、気を失われた清子さまの前に大辯才天女尊がお姿をお見せになり、「よく来た。そなたの成長を待っていた。そなたは人妻となり、人の子の母となって、もはや、世の人とたちまじっての修行は終えた。これより先は、この辯才天の顕神、身代わりとなって、現世にあって、人の苦しみ、悩みを救うがよい」とお告げになられたのです。
 そして、「低きにながれ、低きにしみとおるのが水じゃ。水の心を心とせよ。水の心のある所、辯才天は、常にそなたとともにあって、現世苦業を滅するであろう」と天啓を授けられ、このときから清子さまは大辯才天女尊の神代となり、のちに辯天宗の宗祖となられます。

苦衆救済はやがて 全国へと広がり

 宗祖さまのもとには、苦しみを抱えた人々が途切れることなく訪れました。1人でも多くの人をお救いしたいと、宗祖さまは朝から夕まで本殿に座り続けてご神示され、夜は悩み苦しむ人々をお救いになるために祈られました。今日どうなるかわからないという深刻な状況にある人のためには、冬の凍てつく中でも裸足でお百度を踏まれることがありました。宗祖さまの夫であり辯天宗の初代管長である智祥さまとともに、全国各地に足を運ばれて救いの道を示され、いつしか信者は全国へと広がっていきます。
 「信者思えば苦しくもなし」と、信者の救いと幸せだけを願い続けられた宗祖さまは、昭和42年2月15日に御遷神されました。59歳でした。
 宗祖さまは、御遷神前に「私が地下にもぐっても私の魂はこの世に生き続け、信者さんをおまもりし、もっともっと澤山の人たちをたすけさせていただきます」と最後のお言葉を遺されました。
 宗祖さまのお姿が見られなくなっても、信者は宗祖さまが残された御教えを胸に、日々信仰に励んでいます。