辯天宗について

宗祖さまのあゆみ

少女時代

少女時代[イメージ]宗祖さまである大森智辯尊女(旧姓吉井清子)は明治42年4月1日、奈良県吉野郡吉野村飯貝に生を受けられました。生家は貧しく、さまざまな苦労が宗祖さまを襲いました。学校を休んで桑畑 で母を手伝われたとき、教室から流れる歌声に涙を流したこともありました。事業に失敗した一家の苦境を救うため、小学6年生で四日市の製糸工場へ年季奉公に行かれたこともありました。これらの苦労はすべて人としての行であり、これが神代となる宗祖さまの人となりをつくり上げました。

天啓

天啓[イメージ]成長した宗祖さまは大森智祥のもとへ嫁ぎ、子を産み母となられました。昭和9年4月17日のこと、十輪寺の境内で庭いじりをしていた智祥の傍らの宗祖さまに異変が起こります。突然、宗祖さまは倒れ、大辯才天女尊が姿をお見せになったのです。大辯才天女尊は「そなたは妻となり、母となってもはや、世の人とたちまじっての修行は終えた。これより先は、この辯才天の顕神、身代わりとなって、現世にあって、人の苦しみ、悩みを救うがよい」と告げられました。さらに「低きに流れ、低きにしみとおるのが水じゃ、水の心を心とせよ。水の心のある所、辯才天は常にそなたとともにあって、現世苦業を滅するであろう」と天啓を授けられました。この日から智辯は、大辯才天女尊の神代となられたのです。

救いの行

救いの行[イメージ]宗祖さまのもとには、途切れることなく苦しみを持った信者が訪れました。一人でも多くの人を救うため、宗祖さまは雨の日も風の日も体調が悪い日も信者と直接に会われました。休憩もとらず、一日中座ったままなので、宗祖さまの足は、いつも紫色に変色していました。まさにご自分の身を削って苦衆救済を実践されたのでした。 ご自身の三男祥三が、肺炎をこじらせて亡くなるという出来事もありました。その悲しい通夜の最中にも、宗祖さまは、一人の母親の懇願に応えて急病で苦しむ子どもを救いに出掛けられました。戦後の混乱が治まったころ、信者は近畿一円を越えて、全国へと広がりました。宗祖さまは本部での信者救済の合間を縫うように、 夫であり辯天宗の初代管長である智祥と手を携え、全国各地の信者の集いに直接足を運ばれ、人々を救われました。

御遷神

御遷神[イメージ]過酷なお働きによるご苦労は、人としての生命を縮めることになりました。昭和42年2月15日、宗祖さまは御遷神されました。御遷神の2日前、智辯は信者に最後の言葉(『御遺告』)を遺されました。
「みんなの苦しみを持って行けるならいつ死んでもよいといつも思っていました」「私が地下にもぐっても私の魂はこの世に生き続け、信者さんをお守りし、もっともっと沢山の人たちをたすけさせていただきます」
信者は皆、この『御遺告』に励まされ、お授けいただいた「宗祖五行のお諭し」を実践し続けています。宗祖さまは、今も常に私たちの側にいてくださり、おみちびきくださっているのです。